国宝「平家納経」は、『法華経』一部(八巻・二十八品。「品」は「章」の義)に『無量義経』(開経・一巻)と『観普賢経』(結経・一巻)、『阿弥陀経』(平清盛署名・一巻)および「紺紙金泥般若心経」(平清盛書写・一巻)に平清盛の「願文」(供養の由来を述べた文書・一巻)を添えて一具全三十三巻を、金銀の雲龍文様の金具を飾った黒地銅製経箱に納めて厳島神社(広島県佐伯郡宮島町)に奉納したものである。
「願文」によれば、1164(長寛二)年9月、権中納言・従二位平清盛(47歳)が安芸国伊都岐島社(厳島神社)に、一門の男性たちが結縁(仏に縁を結ぶ)供養して奉納した次第を明らかにする。なぜに神に仏の教えを説く教典を奉納したのだろうか。
もともと、わが国固有の神と仏教の仏菩薩とを同一視して、両者を同じところに祀って信仰する風習は、奈良時代(8世紀)に始まる。神仏混淆(神仏習合とも)の思想である。よって、神社の境内やその近くに付属する寺を建立して、神宮寺と呼んだ。やがて平安初期(9世紀)になると本地垂迹説がおこる。神は仏が世の人を救うために姿を変えて、この地に現れたもので、神仏は同体であるという。平安末期(12世紀)から鎌倉時代(13世紀)にかけては、すべての神社の本地仏が定められ、その思想は盛んとなった。1868(明治元)年10月に「神仏判然令」などを発布、その混淆が禁止されるまで、世紀を越えて永く神も仏も同じであるという観念であった。厳島神社の本地仏は大日如来とも、また観世菩薩ともいわれてきた。
したがって、この「平家納経」が厳島神社に奉納されることは何らの不思議もないごく自然の信仰であった。桓武天皇(69歳)の勅命で仏法の修学のために渡唐した最澄(38歳)は、在唐8か月の後、帰国した。王城(京都)の艮(東北)に位置する比叡山延暦寺に日本天台宗を開き、『法華経』を根本経典とした。たちまちにして、宮廷や貴族社会に法華経信仰が広まった。この「平家納経」が『法華経』を中心とする意義も、おのずから明らかである。
清盛の「願文」には、一門繁栄を謝し、この上は「来世の妙果」(死後における仏の果報)を祈って、清盛はじめ長男重盛(27歳)・異母弟頼盛(34歳)ら一族に郎等平盛国(52歳)らが加わって、「卅二人、各一品一巻を分ち、善を尽くし美を尽くさしむる所なり」(各自が一巻ずつ分担して、美のかぎりを尽くして経巻を装飾した)と記している。もともと、仏教信仰の功徳の最上は写経とされていた。この写経というものは、亡者の追善(死後の成仏)のためと、当人の逆修(生きているうちに、あらかじめ死後の成仏を祈る)という2つの善根のために行った。この「平家納経」は、後者の逆修供養であった。 小松茂美 |