サイズを変更 標準
原典平家物語
トップページ ご挨拶 原典「平家物語」の魅力 DVDのご紹介 出演者のご紹介
原典「平家物語」DVD各巻
 
市川段四郎
市川段四郎
岡橋和彦
岡橋和彦
島本須美
島本須美
下條アトム
下條アトム
 原典「平家物語」DVD 巻第二絶賛発売中!
「西光被斬」 市川段四郎
「小教訓」 岡橋和彦
「禿髪」 島本須美
「大納言死去」「卒都婆流」 下條アトム
◆章段の解説付き。価格21,000円(税込)
●ご購入のお申込み、お問い合わせは下記へ
株式会社ハゴロモ TEL03-6672-5629
「平家物語」巻第二の展開 杉本圭三郎
  「平家物語」第二巻は、第一巻の平家の権勢に対してこれを打倒しようとする後白河院の近臣藤原成親らの謀議、鹿ケ谷の事件と、さらに成親に組して反平家の中心にあった西光の子で加賀国の国司であった師高の弟、同国の目代(代官)師経が、国内鵜河の山寺で起した狼藉事件を発端として、鵜河の僧たちがこの不法を白山に訴え、白山の衆徒は大挙して目代師経の館へ押し寄せ、目代は京に逃げ帰ったが、白山勢はさらに山門(延暦寺)に訴え、山門の大衆は師高、師経の処罰を求めてて日吉神社の神輿を先頭に、宮中へ強訴、宮廷では武士に命じて防がせたが、たちまち乱闘となり、神輿に矢がたったり、死傷者がでる惨状となった。このほぼ同時期の二つの事件をうけて、巻第二は冒頭「座主流」の章段で、延暦寺の総責任者、天台座主明雲を、後白河院の怒りが深く、流罪の処罰とし、明雲は東国に向って都を立ったが、琵琶湖畔の勢多で山門の大衆たちに奪還されるという前代未聞の事件に発展した。そこで後白河院側は延暦寺を攻めることを企てたが、一方、成親らの謀議が軍事力として頼まれた多田蔵人行綱の平清盛への密告によって露顕し、院の近臣らに対する清盛の激しい処断に局面は展開し、座主の処分は沙汰やみとなった。清盛は軍勢を動員して防備を固め、まず主謀者藤原成親を逮捕、西八條の邸内に監禁するとともに、謀議に加わった人々をつぎつぎに捕らえた。後白河院の信任厚く辣腕家と評された西光は反平家の先鋒であったが、情報を得て院の御所法住寺殿へかけつける途上、平家の武士たちにとらえられ、縛りあげられて西八条に連行される。清盛の面前に据えられて厳しく追及されるのであるが、清盛の激しい怒りの尋問の前にも屈することなく、面とむかって痛罵を放ち、さすがの清盛も、激怒のあまり声も出せない有様である。責めたてられてついには白状をとられたうえ、口を裂かれて斬られるという極刑に処せられてしまうのであるが、「西光被斬」の章段のこの場面は、すさまじい剛の者の激突として、「平家物語」中の圧巻のひとつである。
 一方、清盛の邸内の一間におしこまれた成親も詰問を受けるが、重盛は、父祖の善悪はかならず子孫に報いるという理念をかかげて極刑を避けるように父清盛を説得する。「小教訓」の章がその叙述であるが、重盛のことばにあるように、重盛は成親の妹を、嫡男維盛は成親の娘を妻としている。しかし婚戚関係にあるから寛怒を申し出るのではないと述べ、極刑を行えば逆に謀反の者が起り、一門の運命にもかかわることになると警告して嘆願するのである。そこで清盛は直ちに処刑することは思いとどまったが、後、備前の児島へ流罪となり、その地で暗殺されてしまった。その経緯は「大納言流罪」「大納言死去」の章段で語られるが、その間に成親の子息で、清盛の弟教盛の娘を妻としていた成経が清盛から呼び出され、その身を案じた教盛がかなわなければ出家する、とまで言って歎願し、ようやくわが邸に成経の身柄をおくことを許された。「少将乞請」の一章があって、親の子を思う情の深さを物語っている。
 清盛は、さらに、反平家の陰謀は後白河院の意志によるものと判断して、院の幽閉を決断し、直ちに行動にうつそうと武装をととのえたところへ重盛がかけつけ、貴族社会の軌範的な儒教、仏教の思想を総動員しての大弁舌によって父清盛の行動を制止しようとする「教訓状」の章段がおかれている。清盛が後白河院を鳥羽殿に幽閉したのは治承三年(一一七九)十一月のことであり、治承元年のこの時点では史実とは考えられないが、重盛像の「平家物語」における役割をもっとも強調する部分であり巻第一の殿下乗合における重盛の行動につぐ虚構の最たるものであろう。重盛の熱弁の前に、清盛はこの行動を思いとどまるが、巻第三で重盛死去の後、反平家の貴族たちを官職から追放するとともに、後白河院を鳥羽殿に押し籠めるという、いわゆる清盛のクーデターの挙にでるのである。
 西八條の清盛の邸に囚われていた成親は、備前国児島に流罪となり、「大納言流罪」の章は悲嘆にくれる成親の心情を綴りながらその行程を辿っていくが、「大納言死去」では、流刑の地へ都に残された妻の手紙を託された旧臣信俊が訪れ、許されて対面する場などが語られたのち、残忍なしかたで殺害されてしまう。
 成親の流罪と死去の叙述の間に、さきに平教盛に預けられた成経も清盛に呼び出されて、備中国へ流罪の処置をうけることになる「阿古屋之松」の章があり、配所で父の流刑の地に近いと察した成経は、父のなつかしさに警護の武士にその距離を尋ねるが、殊更に遠いと答えられて慨嘆する場面が挿入される。
 この成経が俊寛、康頼とともに鬼界が島へと流されるのは「大納言死去」の章の冒頭であるが、流刑地鬼界島での行動は「康頼祝言」の章で語られることになる。このうち俊寛は「天性不信第一の人」と評されて信じなかったが、成経、康頼はふかく熊野を信仰し、島内に熊野三所権現を勧請して、毎日参詣し帰京の祈願をこめ、とくに康頼は格調高い祝詞をしるして、神前に読みあげた。さらに「卒都婆流」の章では、三所権現の御前で通夜をし、「今様」をうたうと、明け方、康頼の夢に神の感応を示す吉報があらわれ、ついで、またの夢に熊野の神木とされるなぎの葉に虫の食った跡が文字のかたちで表現する和歌として帰京の望みのかなえられる神の告げが示されるという奇端を得た。康頼はなおも都を慕って、千本の卒都婆にその想いを現した和歌を記し、神々祈念しながら海に流すのであるが、やがてその一本が瀬戸内の厳島神社の前の渚に流れつく。たまたま康頼の縁者の僧が、康頼の身を案じて流刑の島にわたろうと旅をしてきて、社頭の海辺で流れついた卒塔婆を見出し、康頼の母や妻子のもとに届けようと都に持ち帰ったが、この一件がやがて後白河院の耳にも達し、清盛にも伝わって、同情されることになった。巻第三で高倉天皇の中宮、清盛の娘徳子の出産に際し、康頼らが赦免されて帰京する伏線ともなっている。
 巻第二は中心となるこれらの事件の叙述の間に、平家の専権を憤ってその打倒をはかり身を滅した成親と対照的に、平家の権勢に迎合してその信仰する厳島に参詣し左大将の地位を得たという徳大寺実定の挿話―実定の厳島詣では史料にみえる事実であるがそれは左大将拝任の後であるーが挿入されたり、後白河院の伝法灌項をめぐっての延暦寺と三井寺との紛争や、延暦寺内部の抗争、信濃の善光寺が焼失するといった記事が、時代の末期症状を示すものとして語られている。
戻る
 
  ページトップへ戻る  
【全巻セット】詳細はこちらをクリック
聴いて感じる原典「平家物語」