お問い合わせ|サイトマップ|プライバシーポリシー|株式会社ハゴロモ
清盛の娘、高倉天皇の中宮の出産をま近にして、無事皇子の誕生を祈念する宮中では、平家一門を中心に神仏への祈願をこめ、平家によって非業の死をとげた成親、西光らの怨霊を鎮めるとともに、鬼界が島に流刑となっている成経らの生霊をなだめる為に、特別の赦免が行われることになった。しかし、俊寛だけは、清盛がめをかけて一人前の地位になったにもかかわらず、鹿が谷の自分の山荘で平家に背く謀議に組したというので、清盛の怒りが深く、許されなかった。こうして成経・康頼の二人赦免の使者が鬼界が島に到着するまでが「赦文」の章で語られている。その背後に、ふたりの熊野信仰のご利益が働いていたのであろう。 つづく「足摺」の章は、使者が島に上陸して、流罪の人々を尋ね求める叙述からはじまる。成経・康頼は島内に設けた熊野の社に詣でて姿はみえず、許されぬ俊寛が使者に対面して赦免状を受取り、夢かとばかり喜ぶが、そこに自分の名を見出すことはできない。この場面は作劇の骨法を心得た作者の巧みな設定であり、悲劇的葛藤の果に、俊寛はとりのこされた孤島での死去へとその運命が語られていくことになる。 帰京の願がかなって乗船する二人のあとを追い、ともに帰ることを嘆願する俊寛であるが、到底かなえられる望みではなく、船出する跡を追って慨嘆する俊寛を残して、「御産」の章のはじめに、許された二人は九州、肥前国の平教盛の所領で養生のため、その年を暮すことになった。 都では平頼盛の邸で中宮はいよいよ産気づかれ、後白河法皇をはじめ公卿、殿上人ことごとく参集して安産を祈念したが、難産に清盛も狼狽し「いくさの陣ならば、是程浄海は臆せじ物を」と後に語ったという、そのことばは清盛の武人としての一面を覗かせている。密教の御験者でもあった後白河院の千手経をよみあげての祈祷に、出産を妨げていた物の怪も退散し、無事、皇子が誕生した。 ついで「公卿揃」では、この御産に際しておこった珍事をしるし、六波羅の平家の邸に参集した貴族たちの名を列挙し、つづいて「大塔建立」の章では、中宮御産後の処置や、平家の厳島神社信仰の由来が語られる。清盛が高野山の大塔を修理した折、弘法大師のお告を得て荒廃していた厳島神社を再興し、夢に大明神からこれをもって天下を鎮め、朝廷の警護に当るようにと小長刀が与えられめざめると現実に枕もとにその小長刀が置かれていた。神の宣託には、「但し悪行があれば、子孫まで栄華を保つことはかなわない」という附言があったと語られている。冥界の神仏が現実の人々の運命を予見して、夢を通して告示するということが実際にも信じられていた時代の説話であり、つぎの章「頼豪」で説く怨霊の恐ろしさもこれに通じた理念をもつ挿話である。時代は遡って白河天皇の代、天皇は中宮に皇子が誕生するよう、勧賞は望みのままという約束で三井寺の頼豪阿闍梨に祈祷を依頼した。精魂傾けての祈祷の結果、やがて中宮は皇子を出産した。頼豪は褒賞に三井寺に戒壇を建立することを望むが、白河天皇は延暦寺との紛争になることを恐れて、これを拒んだ。憤のあまり食を断って餓死した頼豪は、怨霊と化して祟り、皇子は病に犯され、四才で亡くなった。皇子敦文親王の病死は頼豪の死去より七年前のことであるから、この説話はもとより史実ではない。怨霊の恐ろしさを説いて、やがて俊寛が非業の死をとげたことが、平家の滅亡にかかわることを暗示して、許されて帰京する成経の帰路、父の流刑の旧跡にたちよる「少将都帰」の章につづいている。清盛の追及をうけて呼び出され、舅教盛のもとに身柄を預けられていたときも父成親の安否を気づかっていた成経であるが、父の墓前で悲嘆にくれ、七日七夜念仏を唱えて供養し、鳥羽に着いては、父の別荘を尋ねてそのゆかりに生前の面影を慕うのであった。成経の行動は、父の墓標にたてた卒都婆の下に「孝子成経」と記したというように、専ら孝道の実践であった。鬼界が島流人の三人は、それぞれその行動に特徴をもたせて語られているが、康頼はもっぱら帰京の願を実行であらわし、俊寛は島に残されて過酷な状況のなかで最期をとげる、というように、役割り分担の演出といった趣向で語られているのである。 島にとり残された俊寛のもとに、かって召し使っていた有王が、はるばると訪れ、俊寛の最期をみとった上、その遺骨を高野山に納め、その後諸国を巡って俊寛の後世菩提を弔ったという、鹿が谷事件の結末にもあたる物語が「有王」「僧都死去」とつづく二章である。 柳田国男「有王と俊寛僧都」の論は有王塚と称する遺跡が各地にあり、有王と名のる語り手が俊寛の悲劇を語って巡った痕跡とみて、「平家物語」が語りから生成したことを説いたが、民俗学の立場からの「平家物語」形成論の基となっている。 ここで、物語は重盛の死去という新たな状況に進展するが、その先ぶれのように天変地異が起ったとして「?」の章をおいている。社会的、政治的事件には、その前兆として天体の運行や地上の現象に異変が生じるという思想は、「日本書紀」以来、歴史記述に常にみられることであり、「平家物語」もこれを踏襲している。治承三年五月十二日、都は激しい旋風に襲われて多くの家屋が倒壊し死傷者もでた。神祇官で御占が行われ、高位の大臣が謹慎すべきこと、世が乱れ戦乱が起るであろうこと、が告げられた。それが、やがて重盛が病を得て死去する前兆であると示されているのである。方丈記も叙述しているこの辻風は、その文をそのまま平家物語はとり入れているが、事実は重盛死去の翌年、治承四年のことであるが、史実を倒置して関連づける虚構がとられているわけである。こうして、重盛の死去とその人物を語る挿話が、「医師問答」「無文」「燈炉之沙汰」「金渡」とつづく章段で叙述される。 父清盛の行動が平家一門の衰滅の運命にかかわると察知した重盛は、熊野に参詣し、父の悪心をやわらげるか、わが命をちぢめて来世の苦を救うかと祈念する。慈円の『愚管抄』に「父入道ガ謀反心アルト見テ、トク死ナバヤナド云フト聞エシ」とあることが背景にあろう。帰京して間もなく重盛は羅病し、清盛は当時在日していた宋朝の名医の医療をすすめるが、外国の医師を頼ることは国の恥としてこれを拒み、やがて死去することになる。 生前、清盛の悪行超過の故に春日大明神に首を召しとられた夢をみて、瀬尾太郎の見た夢と符合したり、自らの死を予知して葬儀に用いる太刀を嫡男維盛に授けたり、仏法の信仰に篤く、熱意をもってその行事を執り行ったという挿話がつづくが、情勢は急変し、重盛によって制御されていた清盛の後白河院を中心とする貴族たちに対する反逆が、その死後、決断されることになる。「法印問答」「大臣流罪」「行隆之沙汰」「法皇被流」「城南之離宮」の諸章がその顛末である。 まず、同年十一月七日の夜、都は激しい地震に見舞われ、例によって占われて火急の事件の前兆とされ、清盛が行動を起すであろうという情報に、後白河院は平治の乱で殺害された近臣信西の子息静憲法印を使者として説得に当らせた。しかし、清盛は、激しい口調で後白河院の平家に対する処置を、一つ、一つと挙げて語り、この憤懣を静憲にぶつけた。その語調はきびしく、後白河院と清盛の葛藤の中心をなすもので、迫力ある叙述となっている。この報告を静憲から聞いた後白河院は「道理至極して、仰せ下さるる方もなし」という始末であったという。その後、同年十一月十六日、清盛は関白、太政大臣以下、公卿殿上人四十三人の官職を剥奪し追放する、いわゆるクーデターを断行するのである。この報を得た九条兼実は、その日記「玉葉」に、「天下ノ大事出来」と記し、「天ニ仰ギ地ニ伏シテ、猶以テ信受セズ、夢カ夢ニ非ルカ、弁ヘ存ズル所無シ」と慨嘆しているが反平家の貴族のみならず、天下を震撼させる大事件であった。 流刑となった太政大臣師長は、その地の熱田明神に参詣して、法楽のため琵琶を奏でて神明の感応を得た話とか、「徒然草」に「平家物語」の作者として名のあげられている行長の父にあたる行隆が、十余年官職を失っていたが、清盛に呼び出されて左少弁に返り咲いたという話などが挿入されて、さらに清盛の後白河院幽閉という、物語のなかでも最も重大な局面へと事件は進展することになる。 高倉天皇はふかくこの事態を慨嘆して出家の意思を書状で院に伝えたりしたが、院から返信でいさめられたり、出家して高野にこもっていた宰相入道成頼は、世も末になるとこのようなことも起るものだ。よくも世を遁れたと嘆息する、など法皇幽閉の波紋はひろがったが、清盛の許しを得て法皇を訪れ対面した静憲法印は、平家の悪行は法に過ぎ既に亡びのときがきていると述べて院を慰めたりもしている。鳥羽殿におしこめられたまま、往事を追想し、懐旧の情にひたる後白河院の心境を述べて、治承四年を迎えることになるところで、巻第三は閉じられている。